
何年か前、『史上最強の哲学入門』という本を読んだ時、同じように優しく哲学のことを教えてくれる本がないか探したことがあった。
その時、池田晶子という著者の本を検索で良く見かけたので、何冊か購入した。しかし、気まぐれの私は、他のことに興味が移ってしまい、目を通すこともなく本棚の隅で眠らせてしまっていた。
その中の本に『14歳の君へ どう考えどう生きるか』という題名の本があった。昨日、本棚をぼんやり眺めていて、ふと読んでみようという気が起きてページを開いた。
著者の池田晶子という女性は、既に若くして鬼籍に入られていると遅ればせながら知った。私より5歳若い著者が、既にこの世に居ないことが、返って身近に感じられたのが不思議だった。
私よりも遥か前に、「考えること」を人生の唯一の目的に捉えていた著者の思いを知りたくなった。
人から嫌われる恐れと人を好きになる恐れ
人から好かれたいと、本当の自分を隠して苦しむより、人を好きになることに思いの向きを変えなさい。人から好かれることは自分ではどうにもならないが、人を好きになることは自分でどうにかなることだから、と著者は提案する。
なるほど、自分で差配できないことで悩むより、自分で差配できることにエネルギーを注ぐことは、消極的な悩みから放たれて、積極的な軽やかな気分になれる。
長く付き合っても好きになれない人もいる。初めて会った時から好きになる人もいる。人は神様ではないから、相性とか好みがあるのは当然だ。著者も、嫌いな感情は否定せずに、その代わり嫌いな人の存在は認めなさい、それが愛というものだと説明する。
私も人から嫌われることを恐れて、好かれたいと本当の自分を隠して生きて来た。これは著者も指摘するように、自分に自信がないことが原因だ。自分に自信がないから、嫌われることを恐れてしまう。臆病なのだ。
そうか、嫌われれないかと気を病むより、人を好きになろうと思い直すと、なんだか気が楽になるように感じた。
だけど、直ぐに疑問が湧いてくる。
私にも人を好きになる感情はある。しかし、その感情を素直に表せないという別の悩みがあるのだ。
これは嫌われることを恐れることから来ている。こちらの好きという感情が相手にとって好ましいとは限らない。そういう別の恐れがある。
著者は、好きになって嫌われたって構わないじゃないかと簡単に割り切る。その割り切り方が私には難しい。そこには深い溝があるのだ。著者が簡単にその溝を飛び越えてしまうところに、物足りなさを感じてしまう。
この深い溝からの脱出方法こそ、私の知りたいことなのだ。
嫌われることを恐れる者にとって、動機がどうであろうと、嫌われることを恐れることには変わりがない。
嫌いだけど嫌われたくないから恐れるのと、好きになって嫌われるのを恐れるのと、私には同じことにしか思えない。
だから、嫌いな感情も好きな感情も、どちらも隠して接してしまう自分がいる。そのようにして私は生きてきてしまった。
著者の提案するように、好きになる感情で嫌われる恐れを打ち負かすことが私にはできない。
だから私は、嫌いという感情も好きという感情も、表に現さないようにしてしか生きられない。
臆病な私の生き方
嫌いという感情も好きという感情も現せられない私は、自分の中に生きる指針を持たざるを得なかった。
嫌われるとか好かれないとか、相手によって生まれる感情とは無関係に、自分の中に隔絶した指針を持つことで、相手に感じてしまう恐れに抗することができた。
それは、相手に関係なく自分の指針で行動すること。どんな相手であっても変わらない指針で行動する。
その指針とは、以下のようなものだ。
- 正直、誠実であること。
善良だからではない。臆病だからだ。
私は好かれたいとか、嫌われたくないとか、相手からどう見られるかに思い悩みたくない。だから相手がどう思おうが関係なく振る舞いたい。
その振る舞い方の指針として、正直であるとか誠実であるということを私は選んだ。
これは私が善良だからではない。正直、誠実に振る舞う者を、たとえ嫌っていたとしても最低限度は認められると思うからだ。
これは臆病者の行動指針だ。
逆に私が相手のことを嫌っていたとしても、正直、誠実に振る舞えば、相手に嫌な感情を抱かせることを避けることができると思うからだ。
私の臆病な行動指針は、真の好意とは受け取られないかもしれない。私にとって大事なのは、どう受け取られるかではない。
こう振る舞うことで、相手がどう思おうと関係なく私が主体的になれることだ。
「でも、結局は相手に嫌われたくなくて、相手に好かれたくて、自分の本心を偽って善人を演じているのでは?」と思うかもしれない。
でも、ちょっと違うのだ。
嫌われたくない、好かれたいというのも、正直、誠実でありたいというのも、どちらも本心だ。
隠しているのは、相手を嫌っているか好いているかの私の感情だ。私は相手への私の感情を隠したいのだ。
正直、誠実に振る舞うことは私の本心に反しない。私は本心から正直、誠実でありたいと思っている。
相手からどう思われるかということを遮断して、正直、誠実であろうと振る舞うことで、私は嫌われることや好かれないことに思い悩むことから離れられるのだ。
だから、私は嫌いな人でも好きな人でも、同じように正直、誠実に振る舞おうと努める。
参考文献:
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