
カントは、哲学で到達できる真理とは、人間が認識できる範囲に限定されたものだと考えたようだ。
例えば一つのリンゴがあったとして、それを見つめる人間とネズミではリンゴに対する認識は同じではないはずだ。
ネズミとっては餌に過ぎなくても、人間にとっては、美の対象であったり、万有引力にもつながる食べ物以外の概念や認識がある。
物体も共通に認識できないのに、真理だって全ての生物で共有できるはずがない。人間とネズミとの関係が、人間より優れた宇宙人と人間との関係になりうる。
つまり、人間が扱える真理は人間の立場から見た相対的な真理であって、万物共有の真理=絶対的な真理自体ではない。人間から見た完全な真理の一側面ということだ。
人間であっても、全ての真理の把握はできないとカントは考えた。
それでも万物共有の真理はあると信じる
しかし、それでも私は万物共有の真理はあると思っている。
子ネズミが猫に襲われそうになったら、親ネズミは猫に反撃すると思う。少なくとも子ネズミを危険から守ろうとするはずだ。
本能としての愛情、この場合は防衛本能といった方がいいかもしれない。防衛本能という愛情は人間でもネズミでも共有できる。
おそらく本能という種類のものは生物共通の仕組みのように思える。
動物の世界では弱肉強食が本能だから、強い国が弱い国を侵略するのも人間の本能なのだろう。
アフリカでカモシカを襲いかかるライオンに、「そんな乱暴なことをしたら駄目だよ、仲良くしなくちゃ」とカモシカを守ったら、ライオンは生きていけなくなる。
本能を超える真理はあるか?
ライオンは満腹になったらカモシカを襲わない。無駄にカモシカを襲うことはない。
人間は本能に抑制が効かなくなる。侵略しても飽きたらない。もっと侵略したくなる。
この点では、人間は他の生物に圧倒的に劣っている。抑制できない本能を持つ確信犯なのだ。
今の時代は、本能を超える真理が求められている。しかし、まだ力を持てないでいる。
この役割を担おうとした宗教も力を失って久しい。宗教も本能を超えることができなかった。
アリを踏み潰さない心理
私は散歩をしていて、踏む出した足の下にアリなどの小さな生き物に気づいた時は避けるようにしている。
その時の私の心理は、「せっかく生きているのに踏み潰したら可愛そう」、「自分も死んだらアリに生まれ変わるかもしれない」、「ただでさえ罪深い人間なのに、せめて罪を重ねるのは避けよう」などと複雑な思いがある。
幼児期の私は、こういう小さな生き物を殺して遊んでいた時期があった。しかし、ある時突然罪悪感が襲ってきて、それ以来小さな生き物を殺すことに躊躇するようになった(ゴキブリと蚊は別だが…)
自分より圧倒的に弱いものを守ろうとするのは本能かもしれないが、今の時代はこの本能が薄れているように思えてならない。
むしろ弱いものを、寄ってたかって痛めつけようとしているようにも見える。
東洋哲学にヒントが
東洋には美しい言葉がある。「惻隠の情(そくいんのじょう)」、「憐憫(れんびん、れんみん)」、「判官贔屓(はんがんびいき、ほうがんびいき)」いずれも、弱いものを気遣う言葉だ。
強いものが弱いものを蹴散らす時代に、これらの美しい本能が、本来の輝きと力を復活すれば良いと思う。
日本人はこういう本能を失いかけている。
東洋の哲学には、本能を煩悩として乗り越えようとする傾向が元々有る。
だから、私は今の時代こそ東洋哲学に目を向けるべきだと思う。
いかに美しい考え方であっても、時の権力者の都合も良い解釈で悪用されたりする。
組織よりも個人が乗り越えるべき
宗教でも国家でも組織は腐敗しやすい。やっかいなことに、国家や組織は美しい言葉を好む。
うっかりすると、美しいスローガンに騙されてしまう。
だから、組織や国家に盲従せずに、個々人の心の中に必ず存在している美しい本能を信じ切って、抑制の効かない醜悪な本能を乗り越えるべきだ。
SNSやAIの時代になって、皮肉なことに個性は埋没し、表面的な情報に振り回されてしまっている。
今からは、外側の情報に真理を探そうとするよりも、自分の内側に生まれた時から誰でも持っている美しい本能を真理として行動したら良いと思う。
決して自分の外側、組織や国家に真理を求めようとしてはならない。
真理は自分の心に中にある。この真理は万物共有だと私は信じる。
参考文献:
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