
シナリオの教科書で物語の作り方を学び始めたばかりだが、テーマを決めることの重要性をひしひしと感じている。
これまで物語のテーマについて、いかに真剣に考えていなかったかがわかった。下手をするとテーマなど頭にないまま物語を書こうとしていた感もある。
心に感じた事柄をヒントに書き始めていけば、そのうちテーマがはっきりしてくるだろうなどど思いながら書いていたような気がする。
まるで目的もなく放浪の旅に出るようなものだと、今なら思える。
物語を書こうとするなら目的地を最初に決めて、そこに至る道を確認してから歩きはじめるという方針を持たなければ駄目なのだ。
とにかく物語を作るためには、必ず最初にテーマを決めなければならないと、学ぶほどに重要なことだと思い始めている。
なぜなら、物語のテーマは自分の価値観と直結するので、自分の価値観が問われるからだ。
物語のテーマを決めるには、自分の価値観がわかっていないと話にならない。
こう言う私は自分の本当の価値観をわかっているのだろうか?
物語のテーマは正義や真・善・美でなければならないのか?
古今東西の物語の大部分は正義が悪に勝ち、美しいものが醜いものより賛美され、真実が嘘よりも尊ばれている。
私も含めてほとんどの人が、この不文律に疑いを持たない。悪が正義を駆逐し、醜いものが美しいものをあざ笑い、嘘が真実よりも輝いて完結する物語というものは存在するのだろうか?
テレビの時代劇ドラマ『水戸黄門』のような定番の勧善懲悪とまでいかなくても、世の中の物語と呼ばれるものは正義や真・善・美を讃えている。
物語というものが神話から始まって、先人の経験を教訓として子孫に伝える役割を持っているという説が正しければ、物語が正義や真・善・美を尊ぶのはうなずける。
私が知らないだけで、もしかしたら広い世界には悪や醜いものを讃えるような物語があるのかもしれない。
そうであったとしても、その悪や醜いものの中に真・善・美を見い出すという視点があるのではないかと私は信じる。
悪が悪のまま、醜いものが醜いもののままとしてしか語られていないとしたら、そのような物語が生きながらえるとは思えない。
人は本能的に、物語から自分たちが豊かになるものを得られるものと確信している。これは遺伝子に組み込まれているように思えるほど確信的な経験なのだ。
このことを物語の前提とするなら、物語のテーマと密接につながる価値観も、正義や真・善・美を求める宿命を負っているといえる。
物語のテーマと作者の価値観は一致する必要があるか?
この疑問に私は明確に答えられない。
というのは、どのようなテーマを選ぶにしても、そこにはなんの制約があってはならないと思っている。
だから、自分の価値観とは異なるテーマであっても、自由に物語を描いて構わない。この点の自由さを失いたくはない。
ただ、自分の信じる価値観と物語のテーマが一致する場合に比べて、物語への熱量が変わってくるとも思っている。
できることなら、自分の価値観を反映するテーマで物語を作る方が望ましいとは考えている。
自分の価値観とは異なる価値観で物語を描くということは、他人の価値観を想像しながら描くことになる。
そこから生まれてくる登場人物の言葉や行動は、他人の言葉や行動の真似事であって、作者の本音から出てくる言葉や行動ではない。
物語の創造の自由さは失ってはならないが、できることなら物語は作者の価値観と一致したテーマで書くべきだと思う。
そうなると益々物語を作る者の価値観が問われることになる。
自分の価値観は本当に自分の本心なのか?
私の経験からも言えることだが、思春期を境にして建前が本音を隠すような知恵を身に付けるようになる。
一般的には、これが大人になるということで、正義とか真実とかいうものとの距離は遠くなっていく。
子供のような純真な心のままで世間を渡っていくと、余計な摩擦を周囲に生じさせてしまう。そのことを経験的にわかっているので、人は建前という仮面をかぶって無難に大人になっていく。
その建前は自分の価値観にも影響を与える。純粋無垢の価値観を建前の価値観が包み込む。そうして次第に元からあった価値観を忘れて、建前の価値観が自分の価値観だと思うようになる。
しかし、物語に求められるテーマというものは、建前の価値観ではなくて、元からあった純粋無垢の価値観の方なのだ。
人がわざわざ物語を求めるのは、この忘れかけてしまった純粋無垢な価値観を思い出したいと欲するからだ。だから、物語は純粋無垢な価値観を、いわば正義や真・善・美をテーマを訴えるのが自然なのだ。
では、問題は自分の価値観は純粋無垢な価値観なのか、あるいは大人になる過程でまとわり付いてしまった建前の価値観なのかということだ。
自分の価値観は本当に自分の本心なのか?
自分の価値観を一度疑ってみる
世の中で起きていること、自分の身の回りや自分からは遠いところで起きていること、様々なことに自分なりの意見を持つ。意識的にも無意識的にも、物事に対して自分なりの意見を持つ。
その意見は自分の価値観から生じていると思っている。
この自分の意見と思い込んでいることを、一度疑ってみる必要があると思う。自分の価値観を一度疑ってみるのだ。
例えば「少子高齢化」という社会的な問題がある。自分からは遠いところにある問題のような、70を過ぎた私にとても近くにある問題のようにも思える。正直に言えば、私はこういう問題を一度も真剣に考えたことなどない。
こういう問題は、自分の本当の価値観、本心を確認するための試薬になる。
「少子高齢化をお前はどう考えるのか?お前に意見はあるか?」と自分に問うてみる。
「介護制度や年金制度を維持していくためには、増加する高齢者を支えるために子供が生まれてこないのは困る。若者の経済的な負担を軽くしたり、賃金を保障したりして結婚しやすい環境を作るか、優良な外国人を受け入れて労働人口を増やしたりしなければならない」
これは私の本心だろうか? 私の価値観から出た意見だろうか? 自分でも建前の意見、建前の価値観に見える。私の本心は何だろう?
明治5年(1872年)の日本の人口は34,806万人、終戦の年の昭和20年(1945年)では72,147万人だった。現在(2018年)は126,440万人。
人口の推移だけを見ると、私はなぜだか楽観的な気分になる。もともとは、遥かに少ない人口だったのだから。なんだか肥満体型を鏡でながめながら、若かった時のしなやかな細身の体を思い出しているのと似ている。
「日本も無駄な贅肉が付き過ぎてしまったのじゃないだろうか?きっと無駄な部分が多くあると思うから、そういうところから削っていけば良いと思う」
この意見は私の本心に近い。
では、削るべき無駄とは何だろう?
この方向で深堀りしていけば自分の本心、自分の本当の価値観、そして物語のテーマに近づいていける予感がある。
- 全国に散らばった都市を集約してインフラの負担を効率的にする。そのためには強権的な政府が必要だ。
- 官僚主導の肥大化した政策システムを改革しなければならない。そのためには強権的な政府が必要だ。
- 強化すべき産業を選別して国際的な競争力を回復しなければならない。そのためには強権的な政府が必要だ。
これらの意見は私の本心に近い。つまり、今の私の本心、価値観は、遅速な民主主義に辟易して国家主義的な政府を渇望するような危険な兆候がある。
いや、そんな単純なことだろうか? なんだか、これも本心を装う偽物の価値観のような気もしてくる。
ただ、力のない正義と力のある悪という対立に関心があるのは確かなように思う。
「力のある正義を実現するにはどうしたら良いのだろう?」
これは私の本心にかなり近い感じがする。
「少子高齢化」からかなり飛躍してしまったが、自分の価値観、本心を確認する作業がいくらかできたと思う。
自分の価値観、本心を一度疑って見ることで、本当の自分の意見、自分の考えから、隠れている本当の価値観を確認できる。
その本当の自分の価値観から自分だけの物語が生まれると思う。
(おまけ)自分の価値観を疑って生まれる物語
せっかくなので、自分の建前の価値観を疑って出てきた価値観を使って、物語が生まれないか要点だけ考えてみた。
- テーマ:「力のある正義は生命や自由の犠牲のはてに生まれる」
- アンチテーゼ:「生命や自由の犠牲をともなうものは全て悪である」
あらすじ:
自由と民主主義を標榜する民自党の青年部リーダーAの裏の顔は、大企業と大教団の利益を優先して政治の頂点に立つ野望を持っていた。
Aの表向きの政治方針は「自由であることが幸福への絶対条件である。経済も文化も自由でなければならない」というもので、自分の選民的なエリート意識は巧妙に隠していた。
Aのような、自由の名の下に実態は階層化された社会で自らのの利益を貪る権力に不満を抱く政治集団があった。その新興政治集団を率いるBは、先の大戦で連合国によって絞首刑になったA級戦犯のひ孫であった。
Bは国防大学創立以来の優秀な成績で卒業すると、国防隊の幹部候補生として着実に階級を登っていった。Bはその過程で自分の「力のある正義で、今の腐った社会をたださなくてはならない」という思想に共鳴する仲間を作っていった。同時に、国防隊統合幕僚長、陸・海・空の各幕僚長の同意を密かに得ていた。
国防隊の中堅幹部になったBは、仲間の幹部とその配下の部下で構成された部隊を率いてクーデターを起こした。日本や世界のクーデターの研究をしていたBは、「国民の支持を得ないクーデターは失敗する」とわかっていた。
国会と警察庁、警視庁、そして首都の大手メディアを占拠したクーデター集団は首相選挙の実施を宣告する。
クーデター集団の代表Bと、民自党を代表したAによる首相候補のディベートが行われ、どちらのが国民のためになるか競うことになった。
「暴力による改革は許されるものではなく、自由な意見が保証され、多数決による民主的な方法で政治は行われなければならない。借金のない収支バランスのとれた健全な国家財政を維持しながら、デフレからインフレに向かわせ、経済を活性化させることで、企業の利益を国民に分配する。同時に国民の負担を減らすよう、減税について検討したい」と主張するA。
「国民の幸福より自らの幸福を優先する官僚体制と、無駄の温床になっている特別会計制度の廃止、不必要に肥大化した衆参両議員の大幅な削減と特権待遇や政党交付金の廃止、捻出された財源を競争力のある情報産業、農畜産業と国防産業に重点投資して、経済的にも安全保障的にも自立国家をめざす。教育費と医療費の無償化。以上を権力を行使して強制的に実行する」と主張するB。
軍事力を背景にしたBの主張に、国民は最初疑いを持った。「政策は素晴らしいが、自由を奪われるのは怖い」と、国民が決めかねている中、テレビや新聞、ネットに、Aが官僚のトップとともに経済団体の会長や教団幹部と豪遊する姿が公開される。
「国民なんて馬鹿ですよ。自由なんてとっくにないのにありがたがって。もっと搾り取ってやりましょう」「まったく。国民はおめでたい上に勤勉ときてますから。自分たちの首が締められてるのに拍手喝さいしてるんですからね」「我々エリートだけが栄えればいいんですよ。自由を守れって言ってれば国民はアホみたいに付いてきますから。「アハハハ…」
この後実施された選挙によって、Bは首相に選ばれる。そして公約通り様々な改革が断行された。改革に不満をもつ旧エリート層は、次々に逮捕連行され、「ファシズムだ!」と叫ぶ一部の声も聞こえたが全て武力によって抑圧された。
真に国民のための改革は現実となってやっと国民の支持が得られ始める。国民は自由というあいまいな価値の薄れたものと引き換えに、目に見える利益を得てBを英雄視する者も現れた。
しかし、首相が国民と対話しようとした公開演説の最中に、傍聴していた青年の発砲によってBは暗殺されてしまう。
国民は、自分たちの未来を託せると思った英雄の死を悲しみ、Bの国葬には長蛇の弔問の列が続いた。
白い菊で飾られた荘厳な祭壇の中央に置かれたBの遺影に向かって、変装したBが手を合わせて見つめている。Bの暗殺は自作自演だったのだ。
手を合わせながらBは心の中でつぶやいた。「暴力による権力の行使を国民が受け入れるには、犠牲というものが伴っていなけらばならない。犠牲は暴力も美化してしまうのだ」
Bは一本の菊の花を祭壇に手向けた。
コメント