考えること

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ホッブズの国家を超える超リヴァイアサンという怪物はいつ現れるか?

17世紀のイギリスの哲学者ホッブズは、国家(リヴァイアサンという怪物にたとえた)の成立理由は無法秩序を権力によって守ってもらうためだと考えた。国家が乱立した時代になると、国家間の争いを統制する超国家が求められるが、人間が作るには不可能だ。
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アリストテレスの考えた3つの政治体制を日本国民は超えられるのか?

アリストテレスは、政治体制には君主制、貴族制、民主制の3種類あり、どの体制もやがて腐敗して革命が起こり新しい体制に代わられ、その体制もまた腐敗し、ということを繰り返すと考えた。日本が腐敗しているとして、その原因と国民が腐敗するのを防ぐには?
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サルトルとレヴィ・ストロースの対立した歴史観から『火の鳥』を思う

サルトルとレヴィ・ストロースの歴史観は正反対だ。果たして歴史は直線的に進化していくのか、それとも同じような歴史をただ繰り返しているだけなのか?両者の歴史観を見て私はどちらにも同意できなかった。どちらも半分正しく半分間違っているように思えた。
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ヘーゲルの弁証法と現在の社会をAIのGeminiと問答してわかったこと

ヘーゲルの弁証法を、AIのGeminiと現在の社会を弁証法的にどう見るか問答した。わかったのは、社会がより良い方向に発展するためには、自然の成り行きに任せていては実現するものではなくて、国家を国民が導くようにかかわる必要があるということだ。
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カントの哲学から醜い本能を乗り越える美しい真理とは何かを考えた

カントは人間が求めることが出来る真理は人間だけの限定された真理に過ぎないと説いた。しかし、私は弱いものを守ろうとする愛情は万物共有の真理であると思う。これからは、弱いものに愛情を向けるべきで、そのためには外側にでなく個人の心に求めるべきだ。
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ヒュームの経験論の前にプラトンのイデア論は耐えられるのだろうか?

18世紀のイギリスの哲学者ヒュームは、真理は経験したことを組み合わせた概念に過ぎないと唱えた。プラトンのイデア論を擁護する私は、経験とは真理を発見するプロセスで、真理そのものを創出するものではないと思っている。イデアは存在すると信じている。
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デカルトの「我思う、故に我在り」はそんなに意義のあることなのか?

デカルトの「我思う、故に我在り」は、「思う」自分の「存在」は疑いようもないことを証明したという。しかし、思うが思うまいが、真理は初めから存在していると私は思う。大事なことは、「何を」思うか?「誰が」思うか?を問うべきで、自分が何を思うかだ。
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プラトンが在ると説く絶対的な真理=イデアの存在を証明するものは?

哲学者プラトンが唱えた、イデアという絶対的な真理が元々存在しているという考え方は、私が世界を理解するのに腑に落ちることが多かった。良心という善なるイデアも、元々誰の心の中にも在るはずだと思っていたからだ。イデアの存在は証明できるのだろうか?
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ギリシャの哲学者プロタゴラスの相対主義から論破とは何かを考えてみた

論破って何だろう?ギリシャの哲学者プロタゴラスは、政治家との討論に相対主義の見地から挑み勝利した。不完全な人間には神のような絶対的な主張はできない。相対主義は不完全な人間にとって有利な論法に見える。ただ、簡単に論破などと言って欲しくはない。
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答えの無いことを考えたい!他人のでなく自分の答えを求める欲求とは?

虫けらの勤勉さにも嫉妬する無能な私でも、答えの無いことをボンヤリ考えている時は、一瞬でも自分らしさを実感できる時がある。答えが溢れかえる世界の片隅で、他人の答えに満足できない自分がいる。答えの無いことを考えたいという欲求はどこから来るのか?