アリストテレスの考えた3つの政治体制を日本国民は超えられるのか?

考えること
アリストテレスの考えた3つの政治体制を日本国民は超えられるのか?

古代ギリシャの哲学者アリストテレス(紀元前384年〜紀元前322年)は、政治体制には3種類の形体があり、いずれも腐敗して革命が起こり、別の体制に代わるということを永遠に繰り返すと考えたそうだ。

アリストテレスの考えた政治体制とは、

  • 君主制
  • 貴族制
  • 民主制
    の3つだ。

君主制は独裁者が現れて腐敗し、貴族制は少数の特権階級が勢力争いをして腐敗し、民主制は大衆が政治に無関心になり腐敗する、とアリストテレスは分析したそうだ。

腐敗した政治体制は、その体制に反対する勢力によって革命的に打ち倒され、とって代わられてしまうという。

その予言のような分析は、現在に至るまで妥当な考えだと評価されている。

ここからが問題だ。アリストテレスの考えた3つの政治体制を人類は超えられるのだろうか?

人類などというと問題が広がり過ぎて手に負えない。日本だけに焦点を絞って考えてみたい。

日本の近・現代史を振り返ると

江戸幕府は将軍を頂点とする君主制だ。押し寄せる外国の要求と国内の有力勢力の不満に対応できなくなり、勤王佐幕派によって革命を起こされた。

そして天皇を頂点とする新しい君主制と、維新の中心勢力による貴族制とが混合したような政治体制となった。

そして第二次世界大戦の敗戦を経て、アメリカ軍の占領政策による民主制を形式的に受け入れた。

受け入れ側の立場によって「押し付けられた」とも、「授けられた」とも多様な見方ができるが、国民自らが戦って勝ち取った形での民主制ではないことは確かだ。

「鬼畜米英」から一転、アメリカに追従して庇護を受けながら経済を成長させて復興を果たした。

政治体制としては、象徴天皇を精神的な君主に戴きながら建前としては貴族的な特権階級を解体し、身分差別のない民主制が始まった。

かろうじて天皇制を護持して、国体の体裁は守ることができたが、肝心なことは全てアメリカにお伺いを立てないと決められない属国に甘んじなければならなくなった。

アメリカの占領軍は東西冷戦を経て、いつの間にか日本を防衛する役割に変貌し、日本の完全な自主独立は半永久的に消滅した。

アメリカの核の傘に守られながら、経済だけに注力できた日本は、一時的な栄華を極める。

しかし、経済以外のものを犠牲にしてきた成長は頂点で弾けた。その後の失われた30年は、世界から一人取り残されたような存在になってしまった。

日本の何が腐敗しているのだろう?

アリストテレスが分析したように、どの政治体制であろうと、いつかは腐敗すると仮定したら、そして日本の失われた30年が腐敗の証拠だとしたら、何が腐敗しているのだろう?

敗戦を経ても変わらないもの

天皇も神様から人間に変わり、雲の上から地上に降りてきた。国民も主権を与えられて、お上に一方的に服従しなくてもよくなった。

しかし官僚は果たして変わったのだろうか?官僚は総体として、敗戦を機して自らを総括したのだろうか?

戦前、戦中、戦後の政党政治の中で、政権が代わろうとも官僚の性質は代わることがなかった。

時の政権の影に隠れながら、影の権力を連綿と築き、温存してきたのではないか。

官僚が未来永劫に栄えるために政権を支え、官僚に敵対するような政権には協力を惜しむ。

官僚と共存できる政権を守るためなら違法なことまでも犯してしまう。あり得ないことが現実として表面化してきたのが現在だ。

私は日本の民主制政治が危機に瀕しているとしたら、官僚の腐敗がまるで病原菌のように、日本という国全体に広がろうとしているからだと思えてならない。

官僚の行いが、悪い意味でのお手本になっているように見えるのだ。

「こんなことまで許されるのか!」

「あんなことをしても罰を受けないんだ!」

官僚の誤ったメッセージが、ジワリジワリと国全体を蝕んでいく。

官僚の腐敗の兆候

贈収賄・汚職の例

  • 建設業界との癒着: 特定の建設業者への便宜供与の見返りとして、官僚が接待を受けたり、金銭を受け取ったりするケースが過去に問題となった。公共事業の発注において、特定の企業に有利な情報が漏洩したり、入札談合が行われたりする背景に、このような癒着が指摘されることがある。
  • 許認可を巡る汚職: 企業が事業を行う上で必要な許認可を得る際、担当官僚に金銭や接待を提供し、迅速な認可や有利な条件を引き出そうとするケース。
  • 不透明な政治献金: 企業や団体が政治家を通して官僚に圧力をかけ、特定の政策決定や事業推進を促すために、実質的な賄賂と見なされるような献金が行われることもある。

天下りの例

  • 独立行政法人や公益法人への再就職: 退職した官僚が、自身が監督していた省庁関連の独立行政法人や公益法人に、高額な役員報酬を得て再就職するケース。これにより、組織運営の透明性が損なわれたり、税金の無駄遣いが指摘される。
  • 民間企業への再就職と斡旋: 官僚が退職後、以前の職務で培った人脈や情報を使って、特定の民間企業に有利な情報を提供したり、事業の斡旋を行ったりするケース。企業側は官僚OBの持つ情報や影響力を期待して、高額な顧問料などを支払うことがある。
  • 「渡り」の常態化: 複数の天下り先を短期間で転々とすることを「渡り」と呼ぶが、これも高い報酬を得るための一つの形態として問題視されている。

腐敗がなくならない理由

官僚は知恵と権力を持っている。日本を実質的に動かしているのは官僚だから、官僚の協力を失いたくない政権は、国民の要望を聞くふりをして官僚を規制する法律を作っても逃げ道を用意する。

天下りを例に、どうして腐敗がなくならないのかを検討する。

法律による規制の「抜け道」や限界

日本政府は過去に何度も天下り規制を強化してきた。特に2008年の国家公務員法改正では、現職職員による再就職あっせんの全面禁止、現職職員の求職活動規制、退職職員の働きかけ規制などが導入された。しかし、これには以下のような限界や抜け道が指摘されている。

  • 「あっせん」の定義の曖昧さ: 法律で禁止されているのは「あっせん」であり、官僚と企業が個別に連絡を取り合って再就職が決まる場合は、表面上は「あっせん」に当たらないと解釈される。
  • 「官民人材交流センター」の形骸化: かつては退職者の再就職を一本化する目的で官民人材交流センターが設置されたが、期待されたほどの機能を発揮せず、期待されたような就職斡旋の場となっていないと批判されている。
  • 「隠れ天下り」の存在: 役員ポストではなく「嘱託職員」などの名目で雇用されることで、天下り規制の対象とならないケースがある。また、独立行政法人や公益法人などへの再就職は、営利企業への再就職とは異なる扱いになる場合があり、これも抜け道となり得る。
  • 「現役出向」の活用: 天下り規制が強化された後、各省庁から独立行政法人や公益法人、民間企業への「現役出向」が増加している。これはあくまで「出向」であり、退職後の再就職ではないため、天下り規制の対象外となるが、実質的には将来の天下り先の確保や、官僚のキャリアパスの一部として機能している。特に、国からの補助金が多い大学などでは、特定のポストが省庁OBの指定席になっている実態も報じられている。
  • 社外取締役など新たなポスト: 近年では、大企業の社外取締役に財務省や経済産業省などのOBが就任するケースが増えており、これも新たな天下り先として注目されている。仕事が少なく、高額な報酬が得られることが背景にある。

官僚制度・雇用慣行の構造的問題

  • 「幹部育成」という名目: 日本の官僚制度は、若いうちから多様な業務を経験させ、幹部候補として育成する「キャリア制度」を基本としている。しかし、幹部ポストには限りがあり、全員が上り詰めることはできない。そのため、一定の年齢になると退職し、民間や関連団体に再就職するという慣行が根強く存在する。
  • 早期退職の慣行: 多くの官僚が民間企業よりも早い段階で退職する慣行があり、その後の「セカンドキャリア」を確保する必要がある。天下りは、その安定的な受け皿として機能してきた。もし天下りの受け皿がなくなれば、官僚のモチベーション低下や、優秀な人材の流出につながるという意見もある。
  • 省庁の「利権」維持: 天下りを受け入れる側は、その省庁との関係を維持・強化することで、許認可や補助金、情報などの面で有利な立場を得たいという思惑がある。官僚側も、退職後のポストを確保するため、現役のうちから天下り先との関係を構築しようとするインセンティブが働く。
  • 情報の非対称性: 官僚は在職中に、政策立案や規制運用に関する専門知識や情報、企業や業界との人脈を培う。こうした「無形の資産」は、退職後の再就職において大きな価値を持つため、民間企業や団体は積極的に受け入れたがる。

日本は官僚とともに腐っていくのか?

もちろん官僚だけが悪いわけではないし、志の高い官僚もおられるに違いない。しかし権力に対して無力の国民や、衆人監視の対象とされやすく官僚の代弁者に過ぎない政治家に比べて、官僚という組織は得体のしれないベールに包まれた集団に見える。

法律を犯した幹部官僚が出世してしまうほど不可解な組織なのだ。

自らに不利な証拠は、自由に改竄(かいざん)、隠蔽、廃棄ができてしまう不可思議な組織なのだ。

官僚が腐敗していくのは勝手だが(悲しく困ったことだが)、日本まで腐って欲しくない。少なくとも国民は腐って欲しくない。

出世や権力など関係ない国民が、官僚と一緒に腐る必要はない。では、どうしたら国民が腐ることを避けることができるか?

民主制が腐敗するのは無関心

2,300年も前にアリストテレスが見抜いたように、民主制政治は国民の無関心によって腐敗する。その通りだと思う。

以前、政権幹部が選挙の前に、「国民は寝ていてくれた方がいい」という意味の発言をした。つまり、国民が政治に無関心であってくれた方が、為政者は好き勝手にできるから有り難いのだ。

選挙に行かないものが、政治や社会に不満だけ言うのは残念でならない。

権利を使わないのが残念でならない。ヨーロッパではこの権利を得るためにどれだけの血が流れたか。

国民が腐るのを防ぐには?

昔は(といっても敗戦以降のことだが)政治に関心があるものは、不満があれば街頭に出てデモをした。

今でもデモという意思表示の手段はあるが、有効な結果や多くの共感・同調を得ているようには思えない。

今最も有効な意思表示はSNSだろう。現代の意思表示はSNSに勝るものはない。

選挙権を放棄しないのは当然だが、それに加えて、犬の遠吠えだろうが何だろうが、理不尽だと感じたことがあれば、直ぐにSNSで自分の思っていることを発信すべきだ。

小さな声が集まれば、デモには及ばなような力を発揮する。

だから、SNSの悪用は罪が重いのだ。弱者の数少ない武器を自ら汚してしまうからだ。

でも自分の考えが正しい保証はあるの?

そういう声が聞こえてきそうだ。

私は良心というものが、誰の心の中にも生まれながらに存在していると確信している。

例えば、人を傷つけた時の罪悪感は誰かに教えられたものだろうか?

例えば、弱いものが痛めつけられていると応援したくなるのは誰かに教えられたものだろうか?

その意味ではプラトンのイデアと同じ思いを持っている。目には見えないけれどイデアとして存在する良心。

この良心に恥じない限り、正しいか間違いかの判断は可能だと思っている。

間違うとしたら、良心よりも利益を優先しようとする欲が働くからだろう。

だから自分の良心を信じてSNSで遠慮なく考えを発信すればいいのだ。

それが、国民が腐っていくのを防ぐ最後の手段だと思う。

参考文献:

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