安倍公房原作の映画『他人の顔』を観て人は自由にはなれないと思った

物語
安倍公房原作の映画『他人の顔』を観て人は自由にはなれないと思った

今日は久しぶりに古い日本映画を観た。安部公房原作で勅使河原宏監督の1966年制作の映画『他人の顔』だ。

映画の途中からだったが、物語の大筋は理解できた。顔に重症のやけどを負い、自信を失った男が精巧な仮面を得て、別人になりすまして自分の妻を誘惑する。仮面によって誰にも束縛されない「自由な他人」を手に入れたと思っていたが、妻から「最初からわかっていた」と告げられ、絶望的になった男は仮面を作ってくれた医師を殺してしまう。

原作の小説は読んだことがないので、参考のためにウイキペディアを見ると、映画とは少し違う内容だった。

原作では最後に妻を殺そうと空気銃を持って探し歩くとあるが、映画では仮面を提供し、自由になれるとそそのかした医師を包丁で刺殺したところで終わり、妻を殺そうとはしていない。

原作のことはわからないので、途中から観た映画の部分に限っていうと、次のことが印象に残った。

  • SF的な表現(行き交う人の群れが皆仮面をかぶっているシーンや近未来的な診察室)
  • 男が仮面を剥がそうとする時に見える、当時にしては仮面が精巧に出来ていること。
  • 作者の伝えたいことを登場人物の会話の中に表して理屈っぽく思える。

白黒の映画だけれど、古臭く感じないのは全体をSF小説的な雰囲気が流れているからだと思う。

すべての登場人物が、意味深な物言いをして、作者の意図をさらけ出したような表現は、全く娯楽映画的でなくて前衛的な映画だ。

仮面をモチーフにして、

  • 誰もが仮面をかぶりながら自分を隠そうと生きている。
  • しかし、換えることのできない仮面では自由になれない。
  • たとえ、自分のものではない他人の仮面をかぶっても、自分を隠して自由にはなれない。

こんなことを作者は伝えたかったのだろうか?

映画は、主人公の仲代達也が医師の平幹二朗を刺殺した後、カメラに向かって薄笑いを浮かべたような表情のクロースアップで終わる。

この後、主人公は原作のように妻の京マチ子を狙いに向かうのだろうか?そんな余韻を抱かせるラストシーンだった。

主人公は、誰からも正体を隠して自由になりたかったのか、それとも、他人になりすまして身近な人間の本性を知りたかったのか?

自分の正体を隠して有利に立っていると思っていたのが、実は全て見抜かれていたことに怒りを覚えて絶望したのか?

自分は特別な人間だといううぬぼれが砕かれたことに、耐えきれずに凶行に走ったのか?

仮面というものは、自分を隠して他人になれる。まるで透明人間になったように、自分にまつわる責任や束縛から開放される。

しかし、自分から離れて別人になってしまった瞬間に、その仮面の下の自由というものは自分の自由ではなくて、誰だかわからない他人の自由なのではないか?

人は他人の仮面ではなくて、自分の仮面、換えることのできない自分の仮面をかぶりながら、自分の仮面の下で自由になろうともがいているのではないか?

「本当の自分はこんなはずじゃない、こんなはずじゃ」

そう思いながら、自分じゃないような自分の仮面をかぶり続けて生きている気がする。

だから主人公が新しい仮面をかぶったところで、それまでの人生と変わることがないのだ。もともと自分じゃないような仮面をかぶっていたのだから。

誰でも、他人のような自分の仮面をかぶって生きていくしかない。

そんなことを考えさせる映画だった。是非原作の小説の方も読んでみたくなった。小説の方が面白そうな気がする。

参考文献:

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